生き方

2020年04月20日

筆は美しい作品をつくるための“道具”。「奈良筆」の女性伝統工芸士・田中千代美さんが目指すものづくり

飛鳥時代、大陸からもたらされ、僧や貴族の間で広がった筆。

現存する日本最古の筆は奈良時代のもので、聖武天皇の御物(ごもつ)として正倉院に収められている17本の「天平筆(てんぴょうひつ)」と、大仏開眼の時に用いられた大筆「天平宝物筆(てんぴょうほうもつふで)」とされています。

やがて、平安時代には、遣唐使として中国に渡った弘法大師(空海)が、毛筆づくりの技法を大和国(現在の奈良)の坂井清川という人物に伝承し、日本の筆づくりが始まりました。

当時、奈良では、多くの僧たちが仏教を学んでいて、高僧や学僧を中心に国産の筆が使われるようになっていきました。そして、かな文字が使われるようになると、丸い線を自在に描ける繊細な筆が求められ、職人たちの技術が発達していったといいます。

今回は、そんな、1200年の伝統を誇る奈良筆の産地を訪ね、女性として初めて伝統工芸士となった田中千代美さんに会いに行ってきました。

何かをしたい!というエネルギーが筆職人になったきっかけに

筆づくり37年。奈良筆の女性伝統工芸士・田中千代美さん。

悠久の歴史を伝える古都奈良。昔ながらの風情ある古民家が点在するならまちの大通りから1本入った路地に、長屋が並ぶ一角がありました。カフェや雑貨店として再生されていて、ほっこりすてきな雰囲気です。その中の1つが、田中さんの工房兼店舗「奈良筆 田中」です。

ならまちにある「奈良筆 田中」の工房兼店舗。

おばあちゃんのうちに帰って来たような懐かしさを感じる佇まいの長屋。玄関でチャイムを鳴らすと、田中さんがにこやかに迎えてくれました。笑顔が素敵なとてもチャーミングな女性です。

田中さんが筆職人を志したのは37年前のこと。当時は、専業主婦でお子さんもまだ小さかったといます。

「若い頃は、印刷会社のデザイナーとして働いていましたが、結婚して専業主婦になりました。でも、ずっとジレンマを感じていて、『何かをやってみたい!』という思いが日に日に大きくなっていって…。でも、なかなかこれと思うものに出会えず悶々とした日々を過ごしていましたね」(田中さん)。

そんなある日、田中さんは、国が伝統工芸の後継者を育成するための事業を行っていることを知ります。職人養成講座が、1年間授業料無料で学べるというものでした。

「これだ!」と思い立った田中さんは直ぐに申込み、時にはベビーカーを押しながら通ったそうです。

気がついたときには、すっかり筆づくりの魅力にとりつかれていた

筆職人になったきっかけを語ってくれる田中さん。

養成講座修了後、田中さんは、筆の製造会社に入社し師匠について、筆づくりに没頭する日々を送りました。

「当時筆づくりは、男の仕事といわれていました。だって良質の材料を取るために、動物の毛をむしるんですよ。なんて恐ろしいこと!そんなこと知らなかったから始めましたけど、気がついたときにはもう手遅れでしたね。そんなこと気にならないくらい楽しくて面白くて」と田中さんは笑いながら話してくれました。

その時代、専業主婦は、編み物や和裁、洋裁をしながら夫のサポートをするのが普通でした。手に職をつけて仕事をすることに周囲から非難の声もあったそうです。しかし、始めてしまったが最後、「筆づくりの、深みにはまってしまいました」と田中さんはにっこり笑います。

しかし、転機は突然やってきます。問屋さんへの納品が減り、廃業を考えるまでになったのです。そこで、田中さんは、お店を構え、直販を始めることにしました。

「問屋に卸さず直販するのは珍しく、周りからは随分と心配されました。実際に、大変な時期もありましたね。

でも、周りの方たちのお陰で何とかやってこられました。墨製造の老舗の職人さんが展示会を行った時、『一緒に並べるよ』と声をかけてくれたことがあったんです。『手数料もいらないから』って、ご厚意で。まだ無名の頃で、涙が出るほどうれしかったですね。イチから始めて大変でしたが、とても楽しかったです」(田中さん)。

1人の職人が一貫して仕上げる。奈良筆ができるまで

田中さんが手がけた筆の数々。大きい筆や小さい筆、太い筆や細い筆、色とりどりの筆、変わった毛の筆などさまざま。

奈良筆は、リス、ムササビ、イタチ、タヌキ、ヒツジ、ウマ、シカなど数種類の動物の毛を巧みに組み合わせる「練り混ぜ法」という作業工程が特徴的です。分業ではなく、一連の作業を一人の職人が制作します。

筆の材料となる動物の毛。

また、田中さんの筆には特徴があります。よく目にする真っ白い筆ではなく、自然な動物の毛色のままです。これは、なるべく漂白をせず、薬品を使わない方法で仕上げるためだといいます。

実際に、筆づくりの工程を教えていただきました。

【1】毛組
毛を原料用途別に分類し良質な毛を選別する。

【2】ぬき上げ
原料に櫛を入れて綿毛などを抜き取る。

【3】毛もみ
毛の油分を取り、くせを直す。

【4】先揃え
毛先を揃え、先の悪い毛を取り除く。

【5】平目
揃えた毛に水を含ませ、筆の長さに切り揃える。

板の長さが筆の長さになる。

【6】形付け
長い毛や短い毛を組み合わせ、きれいな円錐形を成型する。

先の悪い毛は取り除く。

下のように、きれいな円錐形をつくるための作業。

【7】練り混ぜ
何種類もの毛を重ねて、ムラがないように練り混ぜを繰り返す。この時、さらに、先の悪い毛を取り除く。

【8】芯立て
練り混ぜた毛に布海苔を加え、“こま”という道具を使って穂首の太さを決めて乾燥させる。

さまざまな大きさ、太さの“こま”。

【9】上毛着せ
芯毛に、薄く伸ばした〝化粧毛〟を巻き付ける。

【10】お締め
乾燥した穂首を麻糸で縛り、焼きゴテで尻を焼き締めて穂首の完成。

【11】くり込み
筆軸に穂首を付ける。

【12】仕上げ
穂首に布海苔を含ませ、糸を巻いて形を整えて乾燥させ、穂首にサヤ(キャップ)をして、筆軸に筆名などを刻ってできあがり。

奈良筆のことをもっと知ってもらいたいと、体験教室などさまざまな活動を行う。

体験教室が開催される2階には、田中さんの筆を使って書かれた書があちこちに。

現在、奈良筆の職人は30人足らず。そのうち認定工芸士は田中さんを含めて7名だといいます。

田中さんの元へは、「弟子になりたい」と若い方が訪ねてくることもあるそうです。しかし、「食べていくのが大変な仕事です。人様の大切なお子様に、苦労させるわけにはいかないのでお断りしています」と、田中さん。

一方で、一般の方へ向けて、筆文化の継承のために筆づくりの工程の一部を体験してもらったり、筆を使うきっかけになるように筆で字を書く体験教室を行ったり、奈良筆の伝統を知ってもらうための活動を精力的に行っています。

また、毎年6月には、福岡の博多で行われる女性工芸士展に出展し、奈良筆の魅力を広く発信しています

「この展示を待っていてくれるお客様がいてくれて、私も毎年楽しみにしています。今、それに向けて新しい作品をつくっているんですよ。珍しい白たぬきの毛と、羊毛、馬のしっぽの毛と、三種の毛を一つの筆軸にまとめた、『三幅対』です」と言って、一足先に試作品を見せてくれました。

3種類の毛を混ぜずに1束にまとめた「三幅対」。

近所に住んでいる娘さんが、主婦業の合間に、体験教室や展示のお手伝いをしてくれるそうです。娘さんは田中さんの仕事を幼いころから見ています。「いつか娘がマニキュアを取ってくれることを、ひそかに期待しています。筆職人はマニキュアをしてはいけないんです」といたずらっぽく笑います。

筆は芸術品ではなくて道具。だから、書き手のことを一番に考える

書き手のオーダーに合せてつくることも。中には、変わった形状の筆を頼まれることもあるという。

「奈良筆 田中」に筆を探しに訪れる方は、書家や画家など、繊細で個性的な方が多いといいます。

「希望に合わない筆をつくれば、お客様は首を縦には振らない。希望に合うまで長さや太さを修正しながら、やっとできあがった筆を手に取って喜んでもらえた時が、やっていてよかったと思う時ですね」(田中さん)。

工房には、毛先がピンクに染められた化粧筆や筆キーホルダー、筆ピアスなど、ユニークなアイテムも並べられていました。筆の需要が減る中、新しい試みをしているのかと尋ねると、「これはお遊び。筆というものは道具です。芸術品でもありません。だから、あくまでも“書く道具”として、お客様に喜んでもらえるような筆を、誰にでも書き易い筆を作りたいですね」と田中さんは答えます。そして、こう続けました。

「目的からそれず、まっ直ぐにやり続けるのが職人」だと。

その姿がとても清々しく目に移りました。

 

取材協力:奈良筆 田中
執筆:松林美樹
写真:諏訪貴洋(櫻堂)

職人圖鑑編集部

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