日本工芸探訪~ルポルタージュ~

2018年11月15日

【連載:友禅師・彩鬼の世界①】1本の松が命を吹き込んだ「牡丹と獅子」の羽織

現代の東京に、彩鬼こと那須幸雄さんという友禅師がいます。友禅とは布に模様を染める技法で、友禅師は構想から下絵、色挿し、仕上げまでを一貫して行う職人です。

友禅はおもに、江戸友禅、京友禅、加賀友禅がありますが、町人文化に育まれた江戸友禅は、シックで落ち着いた風合いの中に、江戸らしい粋や洒落が表現されているのが特徴です。

那須さんは、かつて気鋭の友禅師として第一線で活躍されていましたが、33歳で原因不明の病に倒れ、長い間、闘病を余儀なくされました。ようやく絵が挿せるようになったのは50代に入ってから。そのためか、ある界隈では“幻の友禅師”と呼ばれ、知る人ぞ知る存在なのだそうです。

『職人圖鑑』編集部では、連載企画「友禅師・彩鬼の世界」として、那須さんの作品ができるまでの物語を、依頼主の思いととともに紹介していきたいと思います。

第1回は、東京都大田区にある老舗和裁仕立て専門店「尾張屋」四代目 森岡正博さんの依頼で羽織の額裏(裏地)に描いた、「牡丹と獅子」の物語です。


那須さんと対談する森岡さん。尾張屋にて。

尾張屋が創業したのは明治16年(1883年)のこと。日本橋の老舗百貨店「白木屋(現・東急百貨店)」専属の仕立屋で、和裁の仕立屋で確固たる地位を築きました。

森岡さんは老舗の仕立屋に生まれながらも、高度成長の時代、父親の下で修行中に、富裕層を相手に商売をする着物の世界に反発を覚えて、「違う世界も体験したい」と外に飛び出してしまったそうです。しかし、ある時、海外から日本を見る機会があり、それがきっかけで老舗を継ぐ決意をします。

「東南アジアで、『一生懸命働けば、私たち日本人のように世界のナンバー2になれるんだ』というようなことを鼻高々に語る日本人を見て、これでは日本はダメになると思いました。それで、和の世界に入ろうと決意したんです。和の世界がなくなったら、日本人の良さがなくなってしまうと思ったからです」(森岡さん)。

森岡さんがこの世界に入ると決意したのは、外資系の半導体メーカーの日本法人の社長を務めていた時でした。その仕事と、仕立ての仕事のバランスを変えながら、5年かかって、シフトチェンジしていったそうです。

家に戻ると決めた時、お父様は余命3ヶ月でした。しかし、森岡さんに遺志を伝えたいと最後の力を振り絞ったのか、1年半生きながらえたそうです。

お父様が亡くなると、森岡さんは、先祖代々続いてきた看板を背負うことになりました。

羽織の裏地に「牡丹に獅子」が描かれるまで。


『牡丹と獅子』という構図はすぐに決まった」と語る那須さん。

森岡さんの手元には、もう1つ、大切なものが遺されていました。お祖父様からお父様、そして森岡さんへ受け継がれた羽織です。「これから俺に何ができるのか」と自問自答する日々。ある時、森岡さんは、形見の羽織を持って、銀行で預金を全部下ろし、「これで裏地に絵を描いてくれ」と、親交のあった那須さんの元を訪れます。

「裏地が江戸前の粋。しかも、春画を描くのが粋なんだよね。でも、森岡は『女の弟子もいるから』と、春画は描かせてくれなかった。それで、どうしようかということになって、牡丹と獅子を描くことになった。寺社仏閣でよく見る構図なんだけど、牡丹は楊貴妃で、それを守るのが獅子なの」(那須さん)。

「子どもの頃に、父親が『獅子は子どもを谷底に落として、這い上がってきた者が後を継ぐ者と認める』という話をしていたのをよく覚えています。

それから、歌舞伎の『連獅子』という演目も思い出されますね。獅子の親子が牡丹の花の香りに包まれると、激しく狂うという場面があるんです。

こういうのは、なんともいえない面白みがありますよね。お互いに知っている人たちが話をすると、現代にいながら、江戸時代や平安時代にポーンととんでいくことができるんです」(森岡さん)。

こうして、絵の構図はすぐに決まりました。しかし、いざ、描いてみると、獅子が落ち着かない。何かが足りない。でも、その何かがなかなか見つからずにいました。

孤高の一本松が加わり、風が吹き、さざ波立ち、音が聞こえる絵になった。


一本松が加わり完成した羽織の額裏。

構図ができてから、しばらく時間がたったある日、那須さんは、足りない何かを描き加えて、森岡さんのもとを訪れます。

「足りないのは松でした。1本の松を加えることで、風が吹いて、さざ波が立って、絵から音が聞こえてくるようになったのです」(森岡さん)。

「松は、儒教では高潔さを表わします。また、長寿の象徴であり、ますらう男に例えられることもあります」(那須さん)。

孤高の1本松。まさに、老舗を背負う決意を固めた森岡さんにふさわしい図柄です。


羽織を着た森岡さん。

そして、その直後、東日本大震災が起こります。その日、那須さんは、森岡さんの工房にいて、羽織の打ち合わせをしていました。

さらに、1年後、岩手の実家が心配で帰っていた那須さんの元を、森岡さんが訪れます。

「那須さんに会いに行く前に、震災の爪痕をこの目で確かめようと、気仙沼まで行ったんです。でも、すっかり復興しているように見えたんですよね。そんなことを、那須さんと食事をしながら話していると、近くに居たおばさんが『あそこから先が大変なんだよ』といって、その先へ連れて行ってくれたんです。見ず知らずの方でした。

そこで、目にしたのが、復興のシンボルになった、陸前高田のあの一本松だったんです。ああ、やっぱり松で良かったんだと改めて思いました」(森岡さん)。

 

「この羽織が始まりでした。那須さんの絵を見たお客様から『私も1枚つくりたい』というお話をいただくようになったんです」と、森岡さん。この後、依頼主の人生の物語をのせた着物が、続々誕生することとなります。

友禅師・彩鬼こと那須幸雄さんが描く着物の世界。続きは、またの機会に。

取材協力:
尾張屋 四代目 森岡正博さん
友禅師 彩鬼 那須幸雄さん

撮影:櫻堂(諏訪貴宏)

職人圖鑑編集部

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