生き方

2020年01月28日

【益子焼】昔ながらの登り窯で焼成する表情豊かなうつわ。「大誠窯」七代目・大塚誠一さん。

小高い丘の斜面につくられた大きな登り窯。その横で、2人の男性が新しい薪窯をつくっていました。麓には、窯から出された、ぽってりと優しく、素朴で力強いうつわが積み重なり、その周りをアヒルたちが気ままに歩き回っています。窯の裏手からはヤギの鳴き声も聞こえてきました。のどかな、窯元の日常です。

作業場を自由に動き回るアヒル。

ここは、栃木県益子町の大誠窯。200年以上前から続く伝統ある窯で、益子で最も大きな登り窯を持っています。

窯をつくっていたのは、七代目・大塚誠一さんとそのお弟子さんでした。

ガスや電気は使わない。薪窯にこだわるやきものづくり

製作中の薪窯。

「窯は山からとってきた土に藁をまぜて成形しています。ちょうど、3~4日前に骨組みを外したところです。ここまでつくるのに半年くらいかかっていますね。

うつわを焼けるようになるのは、窯を完璧に乾かしてからなので、さらに3か月後、春先になると思います。しっかり乾かさないと、高温で焼いた時にひびが入ってしまうんです。また、凍るとダメになってしまうので、凍らせないように火を入れながら乾かしていきます」

七代目・大塚誠一さん。

大誠窯では、ガスや電気を使わずに、薪窯のみで焼成。現在、製作中の薪窯のほか、薪窯が2機、登り窯が1機あるそうです。薪窯にこだわるのは、仕上がりのおもしろさが違うからだと大塚さんはいいます。

薪は赤松を使用。薪割も自分たちの手で行っている。

「新米を炊飯ジャーで炊いても美味しいですよね。でも、羽釜や土鍋を使って薪や炭で炊くご飯はもっと美味しいと思いませんか。ちょっと、お焦げがあったりするのも嬉しかったりして。やきものも同じなんですよ。火の感じだったり、薪の雰囲気だったり、灰がかぶって変化するのが味になるんです」(大塚さん)。

何割かはダメになる。それでも、登り窯を使うのは仕上がりの面白さが違うから

益子最大の登り窯。

益子で一番大きいという登り窯を使うのは年に1~2回。1度に2000~3000個を3日かけて焼くため、人手も労力もかかり頻繁には使えません。窯詰めにも時間がかかり、焼いた後には窯の手入れもしなければなりません。

「一番大変なのは窯詰めですね。釉薬はガラスなのですが、溶けやすいものと溶けにくいものがあるんです。茶色っぽいものは溶けやすいんですが、白っぽいものは溶けにくかったりして。そういったバランスを考えながら配置するんですよ」(大塚さん)。

また、登り窯での焼成はロスも多いといいます。生煮えだったり、焼きすぎたり、窯の壁が降ってきたり……、1回の焼成で何割かダメになるそうです。

しかし、そのデメリットを補って余りある、味のある作品が焼き上がるといいます。

改良を続け、より昔ながらの焼き方に近づける

右は東日本大震災以後に新しくつくった房。壁の焼け方が違う。

登り窯の三段目から上は50年くらい前につくったものを補修しながら使っています。その下の段と焚き口、煙突は、東日本大震災で被害を受けたため、新しくつくり直しました。以前は、8部屋の間口3間(540cm)でしたが、この時、6部屋の間口2間(360cm)に縮小しています。

また、同時に、改良も加えています。以前は、窯を温める際に重油を使っていたため焚き口が3口ありましたが、新しくする際に、焚き口を減らして、最初から最後まで赤松で焚けるように薪をため込む空間をつくりました。

「重油を使っていた時は、一部の作品がちょっと冷たい感じがしていたんです。だから、できるだけ昔ながらのやり方に戻したいと思って。技術はどんどん進化しますが、それに従い、冷たくなるというか…、趣がなくなっていく気がします。

土も釉薬も、できるだけ自分でつくっているんですよ。買ってきたものだと、仕上がりに力がなくなるんですよね」(大塚さん)。

高い山ほど、遠くからもよく見える。益子を出たからこそ、わかったことがある。

蹴ろくろで作陶中の大塚さん。

昔ながらのやきものづくりにこだわる大塚さん。その、ものづくりに対する姿勢はどのようにして育まれたのでしょうか。

益子の窯元で生まれ育った大塚さんにとって、やきものは日常に当たり前にあるものでした。地域には、窯元や作家など陶芸を生業としている人たちがたくさんいて、学校に行けばその子息がたくさんいて…、それほど、身近だったのです。当たり前すぎて、好きでも嫌いでもなく、ただそこにあるという存在でしかなかったといいます。

「幼い頃から、なんとなく、家業を継ぐものと思っていました。しかし、父は、私が益子を出ずに継ぐことは反対でした。『外の世界を見てこい』と関西への修業を勧めました。それで、大学卒業後、丹波篠山の柴田雅章氏に師事しました。

外に出て、いろんな産地のやきものを見たら、やきものが、益子焼が好きになりましたね」(大塚さん)。

伝統的な益子焼らしさのある、大誠窯のうつわ。

また、益子を出たことにより、現代の益子焼の礎を築いた陶芸家・濱田庄司さんの偉大さにも気づかされたといいます。

益子焼のはじまりは、江戸時代末期のこと。当時は、首都圏に近いことから、鉢や水瓶などの日用品の産地として発展しました。後世になり、柳宗悦さんらと民藝運動を推進した濱田さんが益子に移ってきたことから、その芸術的な側面にも注目が集まるようになりました。民藝運動とは、華美な装飾を施した鑑賞用の工芸ではなく、暮らしに根ざした生活道具にこそ美しさがあるという価値観を提唱するものです。

「現代の益子焼のイメージは濱田さんです。1人で産地をつくってしまうくらいの、歴史上の大天才ですよね。濱田さんがいなければ、益子は、伝統的な窯元が2~3個あるだけの田舎だったと思うんですよ。

益子にいた時は、近くにいすぎて、どれほど高い山なのかわかっていませんでした。でも遠くから見ると、その本当の高さがわかるんですよね。中途半端な高さの山は遠くからは見えませんが、本当に高い山は見えるんですよね。

私も、濱田さんのように、益子にある材料を使って、響きあるものをつくりたいですね。強さというか温かさというか、そんな作品がつくりたいです」(大塚さん)。

大塚さんの作品。あめ色に乳白色の流し掛けが艶めかしい大皿にうっとり。

 

最後に、歴史ある窯元の七代目である大塚さんにとって、伝統とはどんなものか伺いました。

「古いものや続いているものというのは、良き勉強相手ですよね。私は骨董が好きで集めているんですが、そこから感じとることがいろいろあるんですよね。自分自身も、それらに共通する、“何か”をもったものをつくりたいと思っています。そして、古いものに、新しいものを吹き込みたいとも思います。それが、伝統なんじゃないかなと思います」(大塚さん)。

新しいムーブメントを柔軟に受け入れる風土がある益子で生まれ育ち、日本六古窯の1つである丹波という800年の歴史を持つ産地で修業を積んできた大塚さんらしい捉え方だと感じました。

 

取材協力:大誠窯
写真:諏訪貴洋(櫻堂)

職人圖鑑編集部

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