日本には古来より墨を磨り、筆を用いて文字を書いてきた歴史があります。
墨の起源は、今から約1400年前のこと。『日本書紀』によると、飛鳥時代、中国から高麗を経て日本にもたらされたと伝わります。
国内で墨づくりがはじまったのは朝廷のあった明日香の地。やがて、遷都とともに奈良に移り、室町時代初期には興福寺二締坊(にたいぼう)で燈明の煤を集め「油煙墨」がつくられるようになりました。これが、現在の奈良墨の起源です。
奈良では、現在でも伝統的な墨づくりが行われており、現在生産90%以上のシェアを誇ります。
JR奈良駅から猿沢池や興福寺へと延びる三条通の商店街。一本路地に入ると、賑やかな雰囲気とは一転して静かな住宅地が広がります。
その一角に、創業以来150年、昔ながらの伝統的な製法で、「奈良墨」をひとつひとつ手作りしている老舗がありました。
表には、「錦光園」と書かれた木の看板。「墨」と書かれたのれんをくぐり、玄関に入ると清々しい墨の香りがします。笑顔で迎えてくれたのは6代目の長野墨延(ぼくえん)さんです。
墨づくりに使う道具や材料。
「まずは、墨づくりとはどういうものか知ってもらわないとね」といって、墨延さんはずらりと材料と道具が並べられた朱色の台を持ってきてくれました。
そこから2つの黒い粉を指して、「墨の主原料となる煤は、大きく分けて2つあります」と説明を始めます。
「1つは、ごま油や菜種油など植物性油を入れたかわらけに燈芯をともし、蓋についた煤を採取する『油煙煤』。かわらけとは、煤を採取するための土器ですね。
墨を採取するための道具「かわらけ」。
もう1つが、ヤニを含んだ松を小割りして、紙張り障子で囲った小部屋の中央に設けた竈で燃やし、周りの障子や天井に付いた煤を採取する『松煙煤』です。こちらは大変貴重で高価なものです。紫式部の『源氏物語』もこの『松煙墨』で書かれたそうですよ。
2つの墨を見比べてみて下さい。色が違うでしょう?」。いずれも、黒色ですがよく見ると「油煙煤」は灰色がかっていて、「松煙煤」は青みがかっていました。
赤松を燃やして採った「松煙煤」。真っ黒というよりも、少し青みががっているのがわかる。
「煤を採取したら、水を加えて、加熱して溶かした膠と香料を混ぜます。膠は動物性のゼラチンのため独特の臭気があるので、臭い消しに樟脳や香料を加えます。樟脳は衣料の防虫・消臭に使われるものと同じです。そこに、オリジナルブレンドの香料を加えます。良い香りでしょう?」と墨延さんが香料をかがせてくれました。
プラスチックのように固まった膠。これを融解して煤や香料と混ぜる。
臭い消しに使われる樟脳。
錦光園オリジナルブレンドの香料。
「わぁ、いい香り!」と私たちは、お香のような香りにうっとり。墨に香料を加えるのは、墨を磨った時に心を落ち着かせる役割もあるそうです。
「これは、麝香(じゃこう)や梅香、樟脳をブレンドしたもの。その調合は秘密ですね。香料は製造元によって違うんですよ」(墨延さん)。
足で踏み込み、手で練り上げて生墨をつくる。成形したら半年前後乾燥させる
墨延さんが生墨を手練りしているところ。目にも止まらぬ素早い手つき!
次は、練りの工程です。
「攪拌機で粗練りしたら、足で踏み込みしっかりと練り合わせ、空気を抜いていきます。空気が入っていると、乾燥させる時に割れてしまうからです。
そして、手で丁寧に練り上げて、円くまとまった生墨を棒状に伸ばしたら、梨の木で作った木型に入れて蓋をして万力で約15分押さえます」(墨延さん)。
木型を外し、成形された墨の形を整えたら、乾燥の工程へ。
木型を外すと、彫刻が転写されて絵柄が浮かび上がる。
急激に乾燥させると墨が割れてしまうため、湿度の高い木灰に埋めて、徐々に湿度の少ない灰に詰め替えていき、水分を抜いていきます。小型で1~2週間、大型で3~5週間かかるそうです。
その後、さらに、天井から吊したり、網の上に並べたりして、小型で3か月、大型で6か月ほど自然乾燥させます。
こうして、水分が1/3抜けて小さくなった墨に彩色して完成です。ただし、ものによってはさらに熟成させるといいます。
良い墨ほど、長い長い年月をかけてつくられるのです。
職人不足で行く末が案じられる奈良墨…。「錦光園」では、後継者が帰ってきた。
7代目・睦さんがつくった木型。日本で唯一の墨型彫刻師のもとで勉強中だという。
墨づくりは10月頃から長くても5月頃まで。高温多湿な時期には、動物性の膠の影響で、乾燥時にカビやすいからです。また、気温が低いほど質の良い墨ができるため、朝も早くから仕事をはじめます。当然、真冬でも暖房は使えません。
「墨職人は半年商売といわれていています。昔は休職中の給料が保証されていたそうですが、今はそうもいかず、若い人はなかなか職人になりたがりません。入ったとしても3~4年かけてやっと育ったかと思えば、辞めてしまったり……。こうした現状が問題になっています」(墨延さん)。
150年前、奈良には「奈良墨」づくりを営む店が70軒あり、墨職人は200人以上もいまたそうです。しかし、現在は8軒、ひと通りの仕事ができる職人は10人程度に減っています。
そんな中にあって、3年前、「錦光園」には、東京の大手企業で働いてた息子の睦さんが帰ってきました。
「この先どうなるかわからない業界だから、『帰ってこなくていい』と反対したんですよね。でも、それを押し切って、39歳で家族を連れて帰ってきちゃったんですよ」と、困った顔をしながらも、嬉しそうに話してくれました。
「まだまだ修行中の身」という睦さんですが、新しいことにも取り組んでいます。奈良に伝わる宝物で、7世紀頃に行われていた仮面芸能に使われた「伎楽面」を象った香り墨をつくったり、オンラインショップを立ち上げたり、さまざまな試みをしています。
伎楽面を象った香り墨「ASUKA」。独自に開発した型で成型されているという。
また、墨づくりのシーズンが終わると、日本で唯一となってしまった墨型彫刻師のところに通って木型づくりについても学んでいます。
新しいことに挑戦しながら、奈良に続く伝統を受け継ぐ修業を続け、これからの錦光園を支えます。
バックパッカーとなり世界70か国へ!外の世界を知ったからこそできること
墨延さんの楽しい語り口に、つい引き込まれてしまう。
墨延さん自身も、家業に入る前、大阪で4年ほど、アパレル業界で働いてました。その後、バックパッカーとなり世界70か国を周り、30歳になってから家に戻って墨職人の道を歩みはじめたのだといいます。
「行く先々でアルバイトをしながらお金を貯めてはいろんな国々をめぐって楽しかったですね。その時の人びとの優しさやぬくもりが墨づくりに役立っていると思います」と、当時の様子を話す墨延さんは、墨について話す時とまた違った無邪気な表情をみせてくれます。
錦光園では、奈良墨のことを知ってもらうために「にぎり墨体験」というものを行っています。海外の方々も奈良墨に興味を示し、にぎり墨体験に来てくれているそうです。
「海外の方には、そもそも墨というものが何なのかというところから知って貰いたいと思って、書道体験をしてもらっています。墨と筆を使ってひらがなでお名前を書いていただくんです。とても盛り上がるんですよ!
日本文化のことや、墨のこと、書のことについて、国内外のいろんな方にお話できるのがこの上なく楽しいです」とにこやかに話してくださいました。外の世界での経験が、ここにも生きていました。
生墨に触れる「にぎり墨体験」に挑戦!
にぎり墨体験。棒状に延ばした生墨をぎゅっと握る。さて、どんな形になるのか……。
私たちも、にぎり墨づくりを体験させていただきました。
まずは、目の前で、墨延さんが、説明を入れながら見事な手さばきで生墨を練ってくれます。その速さに見とれてしまいましたが、実際にはもっと手早く練るのだそうです。
手元をじっと見ていると、墨延さんが、真っ黒い手をぱっと広げました。傷口に墨が入った手を見せて「これがリアルタトゥー」と私たちを笑わせてくれました。
同時に、これが、ひと筋にものづくりに打ち込んできた職人の手かと、ほれぼれしてしまいました。
そして、練り上がった生墨を手に乗せてくれました。生温かくふわっと弾力があります。
それをぎゅっとしっかり握りこんで、開いたら、なんとも味わい深い造形の「にぎり墨」ができました。手が汚れてしまうかと思いましたが、まったく墨が付きません。
これがにぎり墨!1人1人手の形が違うように、にぎり墨の形も違って面白い。
しっかりと自分の指紋が押された生墨は桐箱に入れ、「墨」という文字が書かれた紙袋にいれていただきお土産に。持ち帰って、引き出しの中など温度差のない場所で、3か月乾燥させます。
「香りが良いので玄関に飾ったり、この形を利用して筆置きにしたり、いろいろな使い方ができます。もちろん、これで字を書くこともできますよ」(墨延さん)。
出来上がりが楽しみです。
最後に、墨延さんはこんな話をしてくれました。
「1000年以上前に書かれた木簡(もっかん)が今も正倉院に収められています。墨は耐光性や耐久性に優れ、木や良質な和紙に書かれた文字は消えることなく長きにわたって残るのです」と。墨で書かれた文献や絵画は、時代を超えて、当時の様子や人々の想いを現代の私たちに伝えてくれます。
錦光園ののれんをくぐった時、墨の香りに、懐かしさを覚え、背筋がすっと伸びるような感覚になりました。
このお話を聞いた時、それは精神を落ち着け、ゆっくりと自分の想いや相手を想いながら墨を磨る日本人のDNAが私にも組み込まれているからなのかもしれないと思わずにいられませんでした。
取材協力:錦光園
執筆:松林美樹
写真:諏訪貴洋(櫻堂)
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