風薫る季節、佐賀県唐津市柏崎の、田園広がる小高い丘にある窯元「あや窯」の陶房を訪ねました。
「あや窯」の登り窯。伝統的な薪窯で焼成しています。
ここは、中里文子さんと紀元さんご夫婦が営む窯です。お二人は元教師で、文子さんは裏千家の師範でもあります。そんなお二人が手がけたという陶房には、解体寸前だった、唐津市鏡地区の旧家を移築したというすてきな家があります。
囲炉裏が切られていて、大きな桜の床柱、明かり天井などお二人のこだわりがそこかしこに見られました。「ここをつくるのは、本当に楽しかった。お弁当を持ってきて広げて、歌ったりしながらつくったのよ」と、文子さんは声を弾ませます。
陶房の隣にある、お二人の“セカンドハウス”。いろりを囲んで、客人をもてなすことも。
現在、85歳の文子さんですが、エネルギーに溢れていて、お話もユーモアたっぷり。取材中はずっと笑いが絶えませんでした。何より驚いたのは、文子さんが50歳にして陶芸家に転身されたということ。「挑戦するのに、年齢は関係ないのよ」というお言葉に、聞いている私たちも元気付けられました。
また、教育者でもあった文子さんは、10人の弟子たちを育てました。弟子たちの話をする時の文子さんは、どんな話をする時よりもとても楽しそうなご様子でした。
並んで作陶をする師匠の文子さんと、弟子の三輪さん。
今回は、今も窯の仕事を手伝っているという、一番弟子の三輪廉浩さんとともに、「あや窯」の歴史にまつわるすてきなお話を聞かせてくださいました。
50歳にして教師から陶芸家に転身。そして、一番弟子の三輪さんとの出会い。
煎茶碗の試作品をつくっている文子さん。大小さまざまな形をつくり、1つ1つ手に持って使い勝手などを確かめます。
50歳にして、教師から陶芸家に転身された文子さん。50歳という年齢で、新しいことに挑戦されたことに驚かされました。その挑戦を後押ししたのは、お母様の存在だったといいます。
「母は、戦後、50歳で台湾から引き上げてきて、山を開拓して檜山をつくったの。だから、『母がやれるなら私もやれないことはない』と思って」と文子さん。教職を辞し、人間国宝の井上萬二先生のもとで3年間の修業を経て「あや窯」を開きました。窯の名前も井上先生の命名だそうです。
そこに、しばらく経って、一番弟子の三輪さんがやってきます。東京造形大学を卒業した後、やきものをやりたいと修業先を探していたところ、知人から「あや窯」を紹介されたそうです。
「一番弟子が、一番できがよかったわね」と文子さん。三輪さんは4年間の修業後、独立して、「陶工房 土のいぶき」という窯を開きました。日展で受賞するなど、その作品は高く評価されています。
「この人は日展作家でね、本当に上手。あと、一歩、「用の美」をもつ唐津焼らしい柔らかいものがつくれるようになると、もっと素晴らしい作品になりますよ」と文子さんは微笑みます。
35年で10人の弟子を育成。「どの子も良い弟子だった。楽しかった」。
笑顔で楽しそうに、お弟子さん達のお話をしてくれた文子さん。
「床の間にある呉須の絵の花入れは、女性の弟子の作品よ」と、文子さん。これまで、35年間に10人ものお弟子さんを育ててこられました。
「彼女は唐津焼がしたいと弟子入りしたんだけど。結局、唐津焼になじめなかったのか、有田へいったのよね。結婚相手も有田の人だったしね。ほら、見て、彼女の作品は細かい美しい線の絵が描いてあるでしょう。唐津焼は書のように一筆書きで、野の草木など一つだけ描くのね。千鳥は二羽が多いけれど。
東京から来た子は腰が悪いというので、うちに来て1週間で『腰が悪いのはやきもの屋には向かないから、辞めた方がいい』と言ったの。でも、彼は続けたのよ。佐賀から一日も遅刻せずに来て。やきものづくりが好きだったからよね。三年の修行を終えて、今は立派な陶芸家になり、活躍していますよ。
それから、今はやきものをやってない子もいるわね。頭がよくてパソコン関係の仕事をしているみたい。私も、よく彼女にパソコンを教えてもらったの。今でも、やきものが好きで、窯元をあちこちと訪ねているようだけど。
いっぱい物語があるの。どの子も良い弟子だった。楽しかった」と、懐かしそうに話されました。
年齢的に窯を続けるかどうか考え始めた時、三輪さんの申し出で、継続することに。
土を練ったり、成形したり、力がいる仕事は三輪さんが引き受けます。
最後の弟子が去る前後、文子さんは年齢的なこともあり、窯を続けるかどうか考え始めていました。そんな時、偶然にも、弟子の三輪さんが訪ねてきました。
「たまたま、仕事が忙しくて、先生の窯を借りにきたんですよ。そうしたら、窯を閉めるというので、『手伝うから、先生、続けましょう』と、言ったんです」と三輪さん。
それ以来、三輪さんは、午前中には「あや窯」でお手伝いをして、午後には自分の陶房で、作品づくりや仕事をするという日々を送っています。
「三輪君が近くにいてよかった。本当によく手伝ってくれるのよ」と話す横で、三輪さんは照れながら、「ただ、ものづくりが好きなんです」と言います。
「あや窯」を支えているのは、弟子だけではありません。文子さんや紀元さんを慕うスタッフたちが、陶房やギャラリーでお手伝いしています。陶房にいるまり子さんは、文子さんの小学校教師時代の教え子だそうです。「色々な人に支えてもらったから、これまでやってこられたのね」と、文子さんは優しく微笑みます。
陶房にて。文子さんと、三輪さん。そして、文子さんの教師時代の教え子のまり子さん。
ギャラリー「淡如庵」にて、唐津焼を研究する郷土史家の紀元さんに会う。
隠れキリシタンの茶碗。高台に十字を描いて密かに祈ったそうです。
やきものを通して地域の歴史を見ることもできます。
陶房から車で15分ほど。唐津駅のほど近くのお茶盌窯通りに、「あや窯」の作品が展示されているギャラリー「淡如庵」があります。ギャラリーの1階には、「古唐津ミニミニ資料館」も併設されています。こちらは、「唐津焼の歴史を伝えたい」と、元・社会科の教師であり、郷土史家の紀元さんがつくられました。紀元さんは、400年続く、唐津焼の名家・中里家の子孫でもあります。
唐津や周辺地域から出土した古唐津の器など貴重な資料が多数展示されています。年代を追って、資料を見ていくと、絵模様を変えつつも、その伝統を受け継いできたことが伺い知れます。この古唐津の資料館には、1年間で約25カ国の人々が訪れたといいます。
資料館では、紀元さんが唐津焼や地域の歴史について熱心に語ってくださいました。お話に集中される紀元さんのそばでニコニコと見守る文子さん。紀元さんのシャツの袖のボタンが外れているのを見つけるとさりげなく留めていらっしゃいました。
文子さんと、夫の紀元さん。お二人の間にはいつも笑いが絶えないそう。
お二人は、同じ中学校の教師で、それからのご縁だそうです。紀元さんは、お二人の馴れそめを嬉しそうにお話してくださいました。仲睦まじいお二人の様子に、あたりが暖かい雰囲気に包まれます。
そして、2階に上がり、ギャラリーへ。そこに並ぶ作品に目をやると、優しく柔らかい雰囲気の陶器がずらり。手に取るとしっくりと、使う人を考えた器です。どれも一つとして同じものはありません。
おみやげにひとつ。これを使う度に、こころがほんのり、温かくなりそうです。
唐津焼の伝統を伝え、人を育て、そして、笑いが溢れる暖かい窯元「あや窯」。
みなさんに会いに、また、ここを訪れたいと思います。
取材協力:あや窯
撮影:櫻堂