箸より軽い茶碗をつくれ――
平戸藩のお殿様から、藩の御用窯であった三川内皿山に命が下りました。
それが発端となり、誕生したのが光を通すほど薄い磁器「卵殻手」です。
光を透過させるほど薄い卵殻手。
卵殻手は出島に寄港したオランダ人たちの目に留まり、egg shell(エッグシェル)としてヨーロッパに輸出されるようになりました。
しかし、時代の変化と共に需要が減り、明治時代半ばには、卵殻手をつくる職人がいなくなり技術が途絶えてしまいました。
それを、およそ100年ぶりに復活させたのが、平戸藤祥13代目の藤本岳英さんです。
今回は、藤本さんに、卵殻手にまつわる物語をうかがいました。
4年の月日を費やして完成した卵殻手。その決め手は網代陶石だった。
平戸藤祥13代目・藤本岳英さん。ギャラリーにて。
三川内皿山が創設された時から続く窯元で、江戸時代後期には平戸藩の輸出事業にも携わっていた平戸藤祥。同家には、江戸時代末期につくられた金襴手(※)の卵殻手が受け継がれていました。
若き日の藤本さんは、この卵殻手に魅了され、失われた技術の謎を解き明かしたいと研究を始めます。最初は、平戸松浦家に伝わる古文書をあたってみましたが、門外不出の技法のため、ほとんど記録はありませんでした。そこで、藤本さんは、地域の先達たちに話を聞いてまわり、その記憶を手がかりに、土の調合を変えたり、成形を工夫したり試行錯誤したといいます。
「この辺りでは、天草陶石を使っているのですが、それでは、生地を薄くすると割れてしまいます。そこで、別の材料を合わせることで強度を上げようと考えました」(藤本さん)。
採掘した網代陶石。
たどり着いたのが、長崎県佐世保市の針尾島網代地区で産出する網代陶石です。明治時代初期に発見され、当時は三川内焼によく使われていました。しかし、現代ではほとんど使われていない、“幻の陶石”といわれています。藤本さんが文献を頼りに採掘して、天草陶石と調合。これが、卵殻手が復活する足がかりとなり、研究をはじめておよそ4年後、2006年に卵殻手の復活に成功します。
※赤絵の上に金彩を施して焼き上げる技法
高度で繊細な技術があってこそ完成した卵殻手
ランプで光を当てて、薄さを確認しながら薄く削っていく。
卵殻手をつくるには、高度な職人技が必要とされます。土ができたからといって、誰もがつくれるものではありません。
卵殻手は、手ろくろで成形したのち、極限まで削って薄くします。ランプで光を透かして確認しながら均等に薄くなるように、慎重に削っていきます。薄すぎたり、厚さにムラがあると焼成中に割れたり、変形したりするためです。江戸時代は、蝋燭の明かりを使っていたといいます。
白磁を手ろくろで薄く仕上げるのは至難の業です。さらに、薄さを見極める難易度たるや。
成形した生地を乾燥させたら、次は染め付けです。染め付けは、以前、こちらでご紹介した、奥様の江里子さんが担当します。
絵付けは、硬く焼き上がったものに描きますが、染め付けは、焼き上げる前のはかない生地に描かねばなりません。釉薬を塗る前なので、薄さも仕上がりの1/3ほどです。
卵の殻ほどはかなく割れやすい生地。
「生地はまるで卵の殻のように繊細で、少し力を入れただけでカリンと割れます。生地を成形するのに手間隙かかっているので、染め付けで割ってはいけないと緊張しますね」(江里子さん)。
こうして、現代に甦った卵殻手は大きな注目を集め、2009年には皇太子殿下(現天皇陛下)に、2007年にはスウェーデン国王王妃両陛下に献上されました。
卵殻手の研究が、結晶釉や曜変天目の技術につながった。
結晶釉の湯飲み。薄く口当たりが良い。
卵殻手の復活は、新たな技法の開発にもつながりました。それは平戸藤祥独自の結晶釉です。結晶釉とは、焼成から冷却の過程で結晶ができる釉薬のこと。
「雪の結晶は、水分が氷点下になって、分子がつながってできます。これと同じように、結晶釉でもさまざまな成分の分子が集まって結晶化を起こすのです」(藤本さん)。
地元の原材料にこだわる藤本さんは、当初、天草陶石でつくった土に結晶釉を使いました。しかし、何度つくっても焼成後、空気に触れるとパンと生地が割れてしまいます。ようやく、割れずに焼き上げることに成功しましたが、納得のいく仕上がりではありませんでした。
ちょうどその時、藤本さんは卵殻手の土について研究していました。
「卵殻手は輸出品で、船で輸送されていました。それでも、割れない強度を持っていたのです。そのため、土の調合について試していたのですが、この時の研究が結晶釉の成功につながりました。
ある先生に、『磁器はなぜ磁石の“磁”という字を使うかといえば、生地と釉薬が引っ張り合っているからだ』と言われました。通常、厚い生地が薄い釉薬を引っ張る力が強いのですが、天草陶石でつくった生地は釉薬に負けてしまうため割れてしまったのだと思います」(藤本さん)。
その仮説のもと、土をブレンドして、ついに、独自の結晶釉を完成させました。平戸藤祥の結晶釉の特徴は、白磁でありながら生地が薄いこと。普通なら、焼成中に割れてしまう薄さだといいます。
見る角度によって色が変化する曜変天目。星形の結晶も神秘的。
そして、その技術は、のちに、虹色に光を放つ曜変の製作にもつながっていきました。
網代陶石に縁を感じて。坂本龍馬愛用、亀山焼の茶碗を再現。
坂本龍馬愛用の茶碗を再現。
卵殻手の復活は、亀山焼が復活するきっかけにもなりました。
亀山焼は長崎奉行所の指示でつくられたものですが、製造された期間が約50年と短く、“幻のやきもの”といわれています。
「20年くらい前、馴染みのお客様が1枚の写真を持ってきて、『これと同じ茶碗をつくって欲しい』といわれました。それは、坂本龍馬が愛用していた茶碗でした。しかし、うちは三川内焼なのでと、一旦はお断りしたんです」(藤本さん)。
ところが、ある時、ふと思いついて、坂本龍馬について調べていると、亀山焼は三川内焼の卵殻手と同じ網代陶石を使っていたことを知ります。これに縁を感じた藤本さんは、依頼を受けることにしました。
「この茶碗は、坂本龍馬がどこへ行くにも持ち歩いていたものといわれています。船に乗るときも持ち込んで、ここに雑穀を干し飯のようにしたものを入れて、お湯を注いで戻して食べていたそうです。割れても焼き継ぎをして使っていました。奥様のおりょうさんは気性が激しくて、ケンカをすると物を投げていたなんて話もあって、もしかしたら、その時に割れたかもしれませんね」(江里子さん)。
まことしやかな物語をもつ龍馬の茶碗。なんとか再現したいと思うものの、“幻のやきもの”といわれた亀山焼の再現は難航を極めました。藤本さんはまず、現物をこの目で見ようと、亀山焼がつくられていた長崎伊良林垣根山あたりを随分歩き回ったといいます。
「失敗作を捨てる“ものはら”を見れば残っているだろうと思い、あの辺りを探し歩きました。今は住宅街になっているので一軒一軒訪ねていったんです。そんな中、あるお宅の方が自宅の庭で見つかった破片を保存されていたんです。その中に、焼く前のものもあって。素焼きしたものに呉須が付いたものでした。これをもとに、呉須絵具と釉薬の色合いを再現することができました」(藤本さん)。
こうして、三川内焼の技法で、亀山焼の復活に成功。専門家に見せたところ、亀山焼の雰囲気が良く出ていると評価されたそうです。現在は、平戸藤祥窯の亀山龍シリーズとしてラインナップされています。
「新しいものを生み出すより、歴史に学ぶ方が近道」
三川内の先人達が何百年、何千年とかけて積み重ねてきた技術の上に、自分自身の感性と発想を重ねることで、新しい作品を生み出してきた藤本さんはこう言いました。
現在は、宇宙空間を思わせるような、神秘的な曜変結晶のうつわづくりに魅了されているといいます。白磁に呉須という三川内焼のイメージとはかけ離れていますが、これもまた、三川内の技術あってこその作品です。
歴史に学び、今をつくり、そしてこれから――。
日本にとどまらず、ニューヨークや上海でも作品を発表する藤本さん。
新しい挑戦がどこにたどりつくのか、とても楽しみです。
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